このコンテンツは、人生のどん底を追体験して勇気を呼び起こすという野心的なストーリーです。

全編が実話です。どのような逆境もはね返すことができます。

これを読めば、誰でも勇気を奮い立たすことができるでしょう。

さあ、いま、銀河の向こうに跳びだそう。

全世界のがん患者に希望を与えた「ランス・アームストロング」過酷さでは類のない自転車レース「ツール・ド・フランス」において7連覇の偉業を達成した。世界で最も読まれたというがん闘病記---「ただマイヨ・ジョーヌのためでなく」 この本のなかでは、壮絶な闘病とレースに復帰するための猛訓練の体験が語られる。彼が世界選手権で優勝したのは21歳であった。しかし25歳で「睾丸癌」を発症した。生存率は極めて低いもので、医師は本当のことを告げることをためらったといわれる。緊急手術によって腫瘍は除去されたが、苦しい闘病が始まったのであった。苦しい化学療法を終えたとき、癌の痕跡は消えていた。ランスは過酷な訓練を再開する。すでにアスリートとは云えないほどに筋肉が落ちていた。ランスは諦めなかった。記者会見を開き、彼を再び受け入れてくれるチームを探した。だが、誰もがもう彼は終わった選手と見ていた。ようやく「USポスタル」というアメリカの新興チームがランスを受け入れてくれる。復帰戦こそ14位であったが、次のレースでは途中棄権。彼の胸に「引退」の二文字が浮かんできた。だが自転車を愛していた。狂おしいほどに。そして三度挑戦することになる。98年、「ブエルタ・ア・エスパーニャ」では見事総合4位に入り、復活ののろしを上げたのだ。さらに翌年の「ツール・ド・フランス」に2位に大差をつけて優勝した。世界が驚いたのであった。「自分を信じ、自分が信じるものをすべて信じよ」ランスはそう云う。

ヨットレース中の事故で遭難、乗員はたったひとりを残して次々に死亡。奇跡の生還「たか号」の悲劇

痩せこけ、伸びた髭、眼が異様に光る一人のヨットマンが、太平洋上で救出されたというニュースが国内を駆け巡ったのは、1992年1月であった。救助された男性は「佐野三治」さん。「たか号」から奇跡の生還を遂げたクルーの一人であった。そして後に「たった一人の生還」(新潮文庫)と題された手記を発表した。この手記によって、27日間の「修羅場」が明かされたのである。それは「修羅場」という以上の凄絶なものであった。1991年12月のグアム島レースに参加、12月26日正午に出港した。

しかし、しばらくは快調に進んでいたが、天候が悪化してきた。そしてメインセールが破損してしまう。12月29日の20時過ぎに衝撃音とともにヨットは転覆。「イーパブ」(救難信号発生装置)が故障という最悪の事態に陥る。クルーは「ラフト」(救命いかだ)に乗り移る。だが、この時もアクシデントが襲う。リーダーの水川秀三氏が死亡した。「ハーネス」を外すことができず水没したのである。致命的悲劇はさらに続いた。「ラフト」の緊急用備品は、乗り移る際に流出してしまったのである。そのため食料と飲料水のほとんどを失ってしまう。生き残ったクルーは6名、畳2畳ほどの「ラフト」で漂流した。だが、水や食料がなかった。残っていたのは、わずかにビスケット9枚とペットボトル1本だけである。翌1月8日、衰弱が目立ち、幻覚を見るようになった。佐野さんたちは、自分の小便さえ口に含んだ。1月10日に「武市俊」氏が死亡した。彼は、ヨットの世界では「神様」と呼ばれるほど有名なヨットマンであった。さらに翌日に3名が死亡。生き残っていたのは佐野さんと「高瀬恒夫」さんの二人。1月13日、偶然舞い込んだ「カツオドリ」を捕獲した。佐野さんは、これを器用にさばいて二人で食べた。だが1月16日に高瀬さんは心臓発作を起こして死亡した。佐野さんは一人残された。1月24日、佐野さんの気力もつきてしまった。彼は金具を使ってリフレクターの裏に遺書を書いている。そして運命の1月25日、英国船籍の貨物船が漂流するラフトを発見した。佐野さんは一人で生還を果たしたのである。

映画化されたアマゾン脱出行は17歳の少女

映画「奇跡の詩」で再現されたアマゾンの決死行

事故当時17歳のドイツ人少女「ユリアナ・ケプケ」は、1971年ジャングルの生態研究をしている父親に会うためペルーのリマから奥アマゾンのプカルパに向かう飛行機に母親と搭乗した。飛行機はプロペラ機で、その乗客は92名であった。そして悲劇が襲う。この飛行機はアンデス上空で乱気流に巻き込まれて空中分解した。生存者は1名だけ、それが映画の主人公になった「ユリアナ・ケプケ」である。だが、状況は最悪だった。未開のジャングルに、水も食料もなく、たった一人で投げ出されたのだ。そして、本当の奇跡が始まった。彼女は絶望の中で生物学者の父親の言葉を思い出していた。「ジャングルで道に迷ったら、水の流れる方へたどって行けば良い。流れはやがて大河になり、そばには人が住んでいるものだ」彼女は、その言葉を頼りに必死で歩き続けた。木の葉のしずくで喉の渇きをいやし、6日間を歩き続けた。体力は限界であった。背中に強烈な痛みを感じた。肉バエに食われていた。手が届かずどうにもできなかった。そうして、やっと河岸に出た。ここで彼女は、簡易的な「いかだ」を作ることを思いつく。ところが、今度は胸の当たりに激痛が走った。思わず見ると20cmもある大きなヒルが何匹も噛みついている。さらに、流木を探そうと水辺に入った彼女を別の敵、肉食ドジョウが襲ってきた。またも猛烈な痛み。彼女の心は、苦痛と恐怖で負けそうになる。しかし、苦闘の末に「いかだ」が完成した。彼女は川を下り始めた。すでに8日が経過していた。何度か幻覚を見た。そして運命の9日目であった。小さなカヌーが岸に繋がれているのを発見した。地元の青年が釣りに来ていた。青年は水を与えて介抱してくれた。そして彼女が墜落機唯一の生存者と知り、驚いて街までカヌーを漕いで知らせに行った。こうして、彼女はプカルパの病院に運ばれた。眼底や鎖骨など複数の骨折があり、全治1カ月の重傷であった。最後まで望みを捨てなかった彼女は、駆け付けた父親と感動の再会を果たしたのであった。