---惨劇を知って身を守る---

このコンテンツは、内外のさまざまな自然災害、深刻な事故を取り上げています。そしてそれを知ることで、少しでも多くの人が、そのような災難に遭遇したとき、わが身を守ることができれば幸いです。そのような店長の願いを込めています。

「危機管理」について、日頃から家族で話し合いましょう。避難場所を家族で実際に確認しておきましょう。家族のきずなも強くなります。また、重大犯罪については、姉妹サイト「通販・防犯機器・監視カメラ・ドライブレコーダー」と連携しています。ぜひ、こちらへお立ち寄り下さい。

海洋マリンスポーツ最大の遭難事故---「マリンマリン号」「たか号」

悲劇の重複遭難事故は、1991年12月29日、30日であった。「悲劇の偶然」、「不運」、「信じがたい」などの見出しが紙面におどった。恐ろしいシンクロ二シティの発現である。遭難したヨットは、「トーヨコカップ・ジャパン-グアムヨットレース」に参加していた。12月26日、三浦半島の油壺からグアムに向けて出航したのである。翌日「マリンマリン」の乗組員の一人が転落してしまう。常識では考えられないミスを犯したのであった。強風にも関わらず命綱を装備しなかった。「マリンマリン」はレース続行を断念しSOS発信と同時に捜索を行った。海上保安庁が駆け付けたが、転落した乗組員の発見・救助はできなかった。さらに悲劇は襲ってくる。寄港中に八丈島沖でスクリューにシートが絡まり、自力での航行不能になってしまった。ヨットはこういう事故に逢うと帆をあげて帆走に切り替える。ところが「マリンマリン」は何故か巡視船に曳航を頼んだ。これで無事に帰還できる---はずであった。悲劇は終わらない。今度は曳航のロープが切れてしまう。日が暮れて来た。修復をいったん中断することになる。巡視船は見守ることにした。ところが、翌午前3時頃に「マリンマリン」は突然消息を絶ってしまう。大がかりな捜索活動が展開されたが発見できなかった。何が起きたのか。午前10時20分転覆しているヨットが発見された。生きて救助されたのは一人だけであった。生存者捜索中の巡視船が誤って「マリンマリン」に衝突してしまったのであった。なんと8名の命が失われていた。また一方の「たか号」である。こちらは、「マリンマリン」遭難の前日、小笠原諸島の北150㌔の太平洋上で沈没した。こちらも生存者はただ一人であった。巨大な波に一瞬のうちに飲み込まれている。その時点で一人が水死していた。生き残っていた6人は、水没しているヨット本体を諦め、救命筏に乗り移った。食糧と水の大部分は失っていた。さらに不運に襲われた。遭難を知らせるための発煙筒なども流出していた。無線さえも機能しなかった。食糧はすぐに底をついた。最悪の瞬間を迎えようとしていた。そのために、遭難の事実を大会側では認識するのが遅れてしまうのである。P3CもYS11も空しく上空を離れていった。遭難ヨットが眼下にいたにも関わらず。英国船に救助されたとき、生還できたのは佐野さん一人であった。他の乗組員は次々に死んでいった。リーダー格の武市さんは、「俺が死んだあと俺を食べてでも生き延びてくれ」と最後の言葉を遺していたが乗組員は武市さんを水葬にしている。海上保安庁の捜索員たちは後に苦難の漂流を知って全員涙を流したそうである。

御巣鷹山JAL123便墜落事故---現場発見の遅れ

すでに歴史の闇に沈みかけているが、疑惑の多い結末にはご遺族ならずとも不快感を禁じ得ない。稀にみる大惨事であった。「九ちゃんはどこに?」当時の新聞1面に載った活字である。

それは、不運にも123便に搭乗していた歌手の「坂本九さん」の遺体が、事故後数日経っても見つからなかったからであった。発見されたのは捜索活動の終盤であった。この事故は、123便がシリモチ事故を起こして修理を受けたことに起因する。1985年8月12日乗員乗客524名、生存者わずか4名のわが国の航空機史上最悪の墜落事故であった。

この事故には、疑惑が持ち上がっている。墜落直後、在日米軍の輸送機が墜落現場を発見していた。そして米軍ヘリが救助に向かおうとしていたが、なぜか機関命令が出されて救出活動を断念している。何か国民に知られたくない事故の秘密でもあったのだろうか。生存者は墜落直後には大勢いたものとされる。救出がもう少し早ければ、と関係者は悔やみきれなかった。事故機の原因究明は米国主導で行われた。最後部の隔壁が風圧で吹き飛ばされ、尾翼を破壊したのが操縦不能になった原因であった。

スキーバス転落---14人死亡

長野県軽井沢付近で大型バスが転落したのは、1月15日の午前1時55分頃であった。負傷者の多くがシートベルトを着用していなかったようだ。着用を促す社内に指示もされなかったらしい。店長も昔東京から長野へ向かうスキーバスを何度か利用していた。当時は確かにシートベルトを着用しなかったように記憶している。それでも、シートベルト未着用の大学生は、無頓着すぎたのではないだろうか。安全になれていて油断があったと言うべきだと思うのだ。大型観光バスに限らず、路線バスでも運転手の高齢化が進んでいる。希望する青年が少なくなり、高齢者に頼らざるを得ないのが現状のようだ。そのくせツアーなどの価格競争があり、安全面での対策は後手に回っている。事故に遭遇しないのが一番であるが、せめてシートベルトを着用を怠らず、最低できる範囲で自分の身を守りたい。

広島雑居ビル火災---放火が囁かれるメイド喫茶

火事は2015年10月9日21時45分頃に発生した。メイド喫茶の従業員とお客の3人が死亡した。一酸化中毒によるものだった。このメイド喫茶には個室があり、そこにいた人たちが逃げ遅れたと見られている。つまり、新宿歌舞伎町のビル火災と同じである。おそらく火事の騒ぎを知らずに中毒死したものだろう。当局の現場検証の結果は、放火の疑いが濃いという。どうすれば巻き込まれずに済むだろうか。店舗からの避難誘導があったにせよ、飲酒しているからすぐに機敏な行動はできないだろう。このメイド喫茶は人気店であり、連日賑わっていたそうだ。放火だとすれば犯人は誰なのか。恨みを持った人間だろうか。すべてが謎である。

新宿西口バス放火事件---防ぐことは出来なかったのか

現在のバスは窓が開かない。冷暖房が完備されている。だが1980年当時には、窓を開けたまま走っていた。8月19日の夜である。京王バスは乗客を乗せて発車時刻を待っていた。暑い日であった。午後9時過ぎである。突然、バスの後部座席に、ガソリンと火がついた新聞紙が投げ込まれたのだ。あっという間に火の手は車内に広がった。誰にも信じられない光景であった。逃げ遅れた乗客6名が犠牲になった。さらに14名が大やけどを負った。犯人は丸山博文(当時38歳)である。当時、新宿西口にはホームレスが大勢住みついていた。建設作業員の丸山もそのうちの一人であった。北九州市生まれの丸山、生い立ち不幸と言えなくもない。彼の父親は定職に就かずに毎日酒におぼれていた。丸山が3歳のとき大型台風に見舞われる。丸山の家は倒壊したばかりか、女手1つで一家を支えていた母親が下敷きになって死んでしまった。建設現場や簡易宿泊所に寝泊まりして、丸山は懸命に働いていた。だが、その日、新宿西口でコップ酒を飲んでいると、群衆のなかから「どこかに行け!邪魔だ!」という罵声を浴びせられた。元来真面目で律儀な性格だった丸山のこころが張り裂けてしまう。「人生がイヤになった。自分にはらが立ってきた」丸山は逮捕後にそう供述している。

不気味な地名には先人の知恵が---「大崩海岸」で起きた惨事

静岡県駿河湾に位置する岸壁。昔から土砂崩れを繰り返してきた。昭和になって国道が整備されたが、急カーブも多く、事故は絶えない。1971年に惨事が起きたのだ。断崖が突然崩落したのであった。通行中のクルマ4台が土砂にのまれてしまった。静岡県では対策本部を設けて救助に当たろうとしたが、落石が収まらず、手の施しようがなかったそうである。救助が始まった。1台は完全に埋まり、男性1人が遺体で発見された。他の3台は間一髪、奇跡的に難を逃れていた。現在、その道路は封鎖され、少し離れた海上に道路が建設されている。「大崩れ海岸」とは、不気味な名前である。

大阪個室ビデオ放火事件---大企業をリストラされ生活保護で暮らしていた犯人

この事件は16人の犠牲者を出す大惨事となった。大阪市浪速区の雑居ビルの1階個室ビデオ店火災。火事は2008年10月1日午前3時頃発生する。ほとんどは、残業で帰宅できなくなっていた会社員が、簡易ホテル代わりに店内で眠っていた。その会社員たちが巻き込まれてしまった。そもそも宿泊施設としての防災設備はなされていなかったのだ。いくら経費節約といっても宿泊所ではない場所で寝るのは、それなりのリスクが発生する。といっても実は、店長も漫画喫茶で夜を明かしたことがある。だから他人事ではなかった。よく行く場所でもあったし。放火した犯人は当時46歳である。パナソニックをリストラされ生活苦に陥っていた。しかし、まだ若い。いくらでもやり直せる年齢である。このような下流をあえいでいる無職たちをどう救済するのか。この難波地区はホームレスも多い。このリストラ男は「生きていくのがイヤになった」のだという。出火当時、店員による消火活動や避難誘導は行われなかった。だが、店舗側の過失については立件が見送られた。そして2014年3月16日にリストラ男の死刑が確定している。

新宿歌舞伎町ビル放火殺人---死者44人の大惨事

01年9月1日午前0時58分ごろ、火災発生。小さな雑居ビルにも関わらず多数の死者が出ている。麻雀店やキャバクラが満員だったせいもあるが、低い防火意識がその原因である。たとえば防火扉が設置してあったが、ロッカーやビールケースなどが積んであり役に立たなかった。それぞれのテナントには「防火管理者」もなく、「消防計画」もなかった。防火扉がきちんと作動さえしていれば、惨事は防ぐことができたであろう。ビルのオーナーなど6名が逮捕されている。このような事故にあわないために、何が必要だろう。防火扉をチェックすること。なるべく古いテナントビルに近づかないことである。独りきりで行動しないこと。また飲食しても、その店に長く留まらないことである。たとえば、ここでは0時前に店を出ていれば、無事であった。そんなお客さんも多かったに違いない。

日本一安全なトンネルのはずであったが---スプリンクラーは機能しなかった

安全神話崩壊、魔の「日本坂トンネル」に。事故は1979年のことだ。東名高速道の日本坂トンネルで大火災。最新設備がただちに鎮火してくれるはずであった。全長2㌔を超えるこのトンネルは、いつでも安全のはず---であった。ところがその防災装置は役に立たなかった。おまけに駆け付けた消防車のホースが短くて、火元まで放水できなかった。この時トンネル内に173台のクルマが取り残されていた。ドライバーたちはクルマを乗り捨てて脱出したのである。火災は3日続いた。よく7名の犠牲で済んだものであった。現在では、道幅も広げられ以前よりはスムーズに走行できるらしい。トンネル内の走行にはよくよく注意したい。

防災不備だらけのハリボテ高級ホテル---ホテル・ニュージャパンの甚大被害

横井英樹は「乗っ取り屋」として有名であった。特に五島慶太と組んで行った、後に東急百貨店となる「白木屋百貨店」乗っ取り事件で名を上げていた。彼が経営権を握っていたのが、ホテルニュージャパンなのであった。ホテルが、英国人宿泊客の部屋から火の手が上がり全焼してしまったのは、1982年2月8日のことであった。消防当局から再三防火設備の不備を指摘され、改善命令を受けていた。スプリンクラーは設置されていなかった。建物は違法な増改築を繰り返し、まるで迷路のような構造になっていた。それが犠牲者を33人も出してしまった原因である。現場は赤坂見附のそばにあり、利便性が抜群に良かった。火災の翌日、店長の私はこの付近で営業していた。まだ火事のなま生しい状況が残っていた。上空を取材ヘリが旋回していた。横井英樹は、この敷地を担保に1,000億円の融資を受けていた。それが、時はバブルの入り口であった。火災ホテルは廃墟のまま放置された。そして、その土地の値段が急騰した。地価は3倍以上に跳ね上がった。横井は逮捕され、有罪判決が下った。その後廃墟は更地になり、新しいビルが建設されている。しかし、幽霊が出た、という噂が絶えない。

新潟県中越地震母子生き埋め事故---2歳の男児が奇跡的に救出された。

地震は2004年10月23日のことであった。そして、長岡市の県道589号線でワゴン車が土砂に埋まった。母子3人が乗っていた。発見されたのは、地震発生からすでに3日がたっていた。すぐに救出できなかった。地盤が緩み2次災害の可能性が高かったのである。消防の緊急レスキュー隊が人命探査装置を使ったところ、土砂のなかで生命反応があった。刻々とニュースでその模様が伝えられた。視聴者は固唾をのんでその救出劇を見守った。レスキュー隊員は母親が子供を励ましている声を聞いたという。それもあって3人は無事という速報がなされた。結局男児だけが無事に助け出された。母親と女児は即死であった。では、なぜレスキュー隊は母親の声を聞いたのか?謎である。検視結果が正確であれば、いったい誰が男児を励ましいたのだろう。

明暗を分けた車両---福知山線脱線事故

事故直後に心霊写真が報道され、悲惨な事故と同じく騒ぎになっている。また、偶然に難を逃れたという不思議なケースも明らかにされ話題になった。その運の良かった女性は当該車両に乗っていた。ところがある老婆に「この電車に乗っていてはいけない」といわれ無理に手を引っ張られ1つ手前の駅で下車し事故に巻き込まれなかったという。実は店長は2005年当時大阪に住み、大阪支店に勤務していた。支店には福知山線で通勤する女性社員がいた。彼女は、事故の当日、朝起きてたまたま体調がすぐれず欠勤したのであった。健康なら下車駅が天満宮であり、1両目に乗って下車するのが便利であり、いつもそうしていた。時間帯からいっても、その事故車両に乗っていた可能性が高かった。先輩がその日の事故を知り、彼女が自宅にいることを電話で確認している。